『パラダイス』
唐突ではあるのだが・・・ヤバい事になっちまった。
かつて無い苦境に立たされたと言っても良いだろう。
何気ない春の日の夕刻、老朽化した雑居ビルが立ち並ぶ中心街の外れ。
偶然。
そう、たまたまである。
本当にたまたま俺はここを歩いていただけなのだ。
特に天に唾を吐く様な悪行をした覚えも無ければ、罰を受けるほど人様に危害を加えた覚えも無い。
まあ、だからといって世間に誇れる様な綺麗な人生でもないが、
それでも、他人に迷惑を掛けるような行為は極力控えて生きてきたつもりだ。
そんな俺が何の因果で、今 こんな場所で死ななくちゃならないんだ・・・
とはいえ、事故死なんていうものは往々にして予測不可能なものであり、
ある意味、何の因果も存在しないものなのかも知れんが。
さて、あと一秒もすれば確実に絶命するであろうこの状況下で
俺は一体どのくらい思考をめぐらせる事が可能なんだろう?
どうせ死んじまうのなら、せめて話に聞く 死に際の走馬灯とやらを存分に味わいたいものである。
自慢じゃないが、俺はこれまでに幾度も死にかけた経験がある。
常人とはかけ離れた環境に身を置いていたせいで、
俺は普通の人間よりも、死と隣り合わせの状況には慣れているはずなのだ。
そう考えると一般的な平均よりも長い時間、死に際に思考をめぐらせる事が出来るんじゃなかろうか?
この際だ、絶命するまでに残されたこの貴重な刹那を、思う存分思考してやろうじゃないか。
今まさに俺の頭上では、鉄骨を贅沢にあしらった巨大なコンクリートらしき物体が、とんでもない速度で落下中なのである。
そいつは事もあろうに、たまたま歩いていた俺にロックオンしてやがる。
おそらく1秒後には、俺はそいつの下敷きになり、ミンチ肉のような姿に成り果てるに違いない。
以前の俺なら、例えこんな状況でも命拾いする可能性が残されていたかもしれない。
事実、九死に一生を得た経験が何度かあったからな。
朝倉涼子に教室で襲われた時は、長門が代わりに串刺しになってくれたっけ・・
眼鏡は無い方がかわいいと思ったぞ、長門。
そういや改変世界の一件で死に掛けたときは、俺自身も助けに来てくれたよな。
あの時はご苦労だったな、俺。
何しろ、宇宙人や未来人や超能力者やハルヒが俺の周りに居たんだぜ。
あの頃なら誰かが何とかしてくれる可能性も充分にあっただろう。
だが、そんな過去とは違い、今回の俺は確実に死んじまうに違いない。
なぜなら、あの時の様な異常な状態は既に終焉を迎えているからだ。
今のこの世界は、ごく自然な世界に戻って久しいのだ。
ハルヒの持つ能力は消滅し、それと時を同じくして古泉はどこかに転校し、
朝比奈さんは未来へ帰還、長門も文字通り姿を消しちまった。
それまでに至るなんやかんやの経緯は、今後谷川先生が素晴らしい文才で語って下さる事を期待して割愛するが、
とにかく、今現在、この世界はごく当たり前の常識的な状態に回帰して久しいのだ。
死を目前に思い出されるのは、やはりあの頃の事になっちまう。
そりゃそうだろう。
あんな突飛で奇抜なモラトリアムを経験した人間が他にも居たとしたら、そいつもきっと俺と同じだと思うぜ。
大人ver.の朝比奈さん、さすが貴女は未来人ですね・・・あのベンチでのお言葉が今になって心に染み入ります。
『きっといつか貴方も、この高校生活を懐かしく想う日が来ます。 終わってしまえば何もかもあっという間だった---
夢のように過ぎてしまった---そんな風に想う時が・・・』
まさに今、そんな風に想ってますよ・・
あの後、俺の肩に寄りかかり妙に悲しそうにしていたのは、俺のこの悲惨な末路を知っていたからですか?
これは規定事項ですか?朝比奈さん・・・
ちくしょう!何もかもが懐かしいぜ。
今思うと、あの頃の俺はまだまだ未熟者だったと言わざるを得ない。
なにしろ、あの非常識な日常がいつまでも続くと本気で思ってたんだからな。
よくよく考えれば、朝比奈さんが上級生として設定されていた時点で 気付くべきだったんじゃないのか?
ハルヒに寄り添う目的の朝比奈さんが、同級生じゃなく、上級生としてやって来たんだぞ。という事はだ、
少なくとも朝比奈さんが卒業するまでの2年以内に、何らかの形で事の結末を迎えるって事くらい予測出来ただろう。
なんであの時は気付かなかったんだ。
おかげであの時の俺には、SOS団の終焉があまりに唐突に思えたぜ。
朝比奈さんが卒業する直前のあの日の事は今でも鮮明に覚えてるぞ・・・
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「いやぁ、お呼び立てして申し訳ありません」
「なんなんだ古泉、改まって。貴重な昼休みに男子トイレに呼び出してまで話すような事なのか?
過去の経験上、お前の神妙な話は大抵聞かない方が良かった事ばかりだ。正直あまり聞きたくないのだが?」
「さあ、どうでしょう?あなたにとって聞きたい事か否か・・計りかねます。
ですが、聞いて頂かないとボクも少々困る事になりそうですし、
もしかすると、あなたにとっては一刻も早く知りたい内容かもしれません」
「まあいい。聞いてやるから言ってみろ」
「実は、突然で恐縮ですが来週早々に転校する事になりました」
「!?」
「晴れて御役御免となりまして」
「ど、どういうことだ?機関とやらをクビになったとでも言うのか?」
「そうですね、そうとも言えますが、正確には機関自体が解体される事になりました」
「なんだって!?じゃあ、これから先あの神人とやらは誰が退治してくれるんだよ!?」
「ご心配には及びません・・・」
「?」
「神人はおろか、閉鎖空間自体も今後出現する事はなくなりましたので」
「なんだと・・・って事は?」
「そうです。涼宮さんの能力は完全に消滅しました。今や涼宮さんは只の人間という訳です」
「ちょ・・ちょっとまて、本当なのか?ハルヒの能力が消えた?あれだけ好き勝手な現象で世界を散々混乱させておいて、
こんなにあっさりと、こんなに突然に消えちまったのか?」
「消えたのは事実ですが、何も突然消えたわけではありません。
あなたと出会ってから徐々にですが、涼宮さんの精神は安定に向かい、まるでフェードアウトするかのように
ゆっくりと消えていったのですよ」
「ほ、本当なのか?」
「はい。今後能力が復活する事もありません。長門さんや朝比奈さんの勢力も同様の見解で一致しています」
「・・で、それは良い事・・なんだよな?」
「この世界にとっては無条件で良い事と言えるでしょう。何しろ今後は常識的な物理法則に則って世界が周るのですから」
「世界にとっては良い事か・・そりゃそうだろうな」
「はい。ただ、我々SOS団それぞれの感情としては 胸中複雑な想いとなるでしょうね・・
勿論、あなたも例外ではありません。
なにしろ、遠からずSOS団の面々は皆バラバラになってしまうのが必然なのですから・・」
「・・・・」
「ボクは少し遠くに離れるだけですが、長門さんや朝比奈さんがそれぞれ然るべき場所に戻った場合、
ご存知の通りその姿を見る事自体、物理的に不可能になってしまいます」
確かにそうだ。長門は宇宙に、朝比奈さんは遠い未来へ戻っちまうんだからな・・・
「で、ここからが本題なのですが、 先程入った連絡によれば、実際に朝比奈さんは・・すでに今朝の時点で未来に帰還したと言うのです・・・」
「・・なんだって!!」
「それもあって、緊急にこの様な場所にお呼び立てした次第です」
こ、古泉の奴、あっさりととんでもない事をぬかしやがった・・
「そんな馬鹿な事があるかよ!あの朝比奈さんが俺たちに何も言わずに帰っちまっただと?そんな話信じるかよ!事前に話があっても良さそうなもんだろ」
「お気持ちはお察ししますが、それも含めておそらく規定事項と言う事になるのでしょう。残念ですが我々には
どうしようもありません・・」
そんな・・
おいおい、それはいくら何でも冷たいぜ、朝比奈さん。
俺はもう貴女の麗しい姿を拝む事が出来ないんですか?
せめて心の準備くらいさせてくれても良かったんじゃないですか?
これが規定事項だとしたら、あまりにも無慈悲な内容じゃないですか・・・
あまりの驚きと焦燥感に襲われながらも、俺は間髪入れずに古泉に問いかけた。
「な、長門は!長門の方はどうなんだ!あいつはまだ存在してるのか?」
「さあ、どうでしょう。今のところ報告は受けていませんが、先ほど確認しましたところ
喜緑さんは昨夜の時点で消息を絶たれたようです・・」
その言葉を聞くや否や、俺は部室に向け駆け出していた。
まさか昼休みの男子トイレに呼び出された挙句、こんな精神攻撃を与えられるとは、
古泉の奴、通常空間でも超能力が使えるようになったのか。いや、ハルヒの能力が消えたって事は古泉も只の人間になってるはずだな。
古泉、お前は来週までは居るって事だよな?
だったらとりあえず今は長門だ。お前とは今度じっくり別れを惜しんでやるよ。
それにお前も言ったとおり、お前は能力は失っても基本的には人間様なんだ。少しばかり遠くに離れようと、
この時空には存在し続ける訳だ、その気になればいつでも会えるじゃないか。
ハルヒもそうだ。あいつも、そして俺も生きている限りこの時空で存在し続ける事が出来るんだ。
だが、長門と朝比奈さんは違う。
俺が生きているうちにコールドスリープの技術が急速発展でもしない限り朝比奈さんとは会えそうにない。
長門に至っては、仮に宇宙開発が飛躍的に進んだとしても、物質ですらない思念体なんてものには会い様がない。
朝比奈さんが本当にもう帰っちまってて、既に手遅れだというのなら、俺が今全力で行うべき行動は只一つだ。
こんなに狼狽した心境で部室に向かうのは久しぶりだ。
あの改変された時空で、長門に居てくれと願いながらドアを開けた、あの時以来だ。
そして今度もまた、長門に居てくれと願いながら俺は乱雑に部室のドアを開けたのだが・・
いない・・・
ちくしょう!長門が居ない。
だが待て、焦るな、今は昼休みだ。
教室に居るって事も十分に考えられる。
即座に本館へ方向転換した俺は長門のクラスに向かった。
「早退だと?」
クラスメイトによれば、長門は1時間前に早退したという。
緊急事態だ、今から職員室に出向き早退の手続きなど済ませている時間は当然ない。
そんな手続きどころか今の俺には靴を履きかえる時間さえ勿体無い。
俺は上履きのまま全力疾走で長門のマンションを目指していた。
道中電話もメールも反応なし・・・
ていうか、電話は契約失効と思われるコールが自動再生され、
メールの方はというとMail Delivery Systemとやらから、送信できませんでした云々の通知が帰ってきやがる。
どう考えてもあまり良い状況では無さそうだ・・・
おい、長門、聞こえてるか?お前まで突然居なくなるなんてのは無しにしてくれよ!
マンションに到着すると俺は、慌てながらも押し慣れた708の部屋番号をプッシュし、極端に取り乱した情けない声でインターフォンに向かって叫んだ。
「長門!居るか?俺だ!開けてくれ!たのむ!お願いだ!!」
「・・・・」
返答の声はない・・・
「おい!長門!居ないのか?居てくれ・・」
往生際が悪いって事くらい自分でも分かってはいたが、
返答の無いインターフォンに向かって 無心で何度も何度も叫んでしまっていた俺は、やがてようやく我に返った。
絶望感に耐え切れず、その場にしゃがみ込もうとしたその時、
突然、エントランスホールの自動ドアが質の良い微音と共にスムーズに開いた。
「・・居てくれたか・・」
はやる気持ちを優先し、すぐさま階段を駆け上る事を選択しそうになったが、
今の自分の身体状況では、エレベーターを使う方が早く長門の部屋にたどり着けると、かろうじて判断し、
あせる気持ちの中、エレベーターに身をゆだねた。
ようやく玄関に到着し、呼び鈴を押す間も無くドアノブを捻ると、少し重いいつものドアが開く。
いつもならこの玄関先で長門が人形のような振る舞いで「入って」などと言葉を添えて迎えてくれるはずだ。
だが、今回は長門の姿は見あたらない。
すまん、長門。今の俺は普通の精神状態ではないんだ、悪いが勝手に部屋に入らせてもらうぞ。
万一お前が着替えの最中で、あられもない姿を俺が目撃してしまったとしても今回だけは許してくれ。
今の俺はモラルを重視するほどの余裕ってものを持ち合わせてないんだ。後でいくらでも謝罪してやる。
意を決して勝手に入室したにもかかわらず、部屋のどこにも長門の姿は無かった。
トイレの中からベランダまで、あらゆる場所を探してもだ・・・
どういうことなんだ長門・・
誰も居ない部屋のロックが勝手に開錠するなんて事は無いはずだろ?
これはどう考えてもお前の仕業だよな?
何しろ今となっちゃ、あのハルヒすら只の人間になっちまったんだぞ?
お前以外にこんな芸当が出来る奴は居ないんだぞ?
早く俺の前に出て来いよ長門・・・
しかし、長門は一向に姿を現さなかった。
部屋は相変わらず殺風景で、簡素そのものだったが、
よくよく見ると、ほんの僅かになら存在していたはずの生活感の片鱗すら一切見当たらない。
食器類もベッドのシーツもトイレットペーパーに至るまで見事に何も無い。空っぽだ・・・
その様は、まさに引越しを済ませ次の入居者を迎えるために待機している空き部屋のそれに他ならない。
只一つ、リビングルームの床に無造作に一枚落ちているB5サイズ程の紙だけが異彩を放っていた。
俺の直感がその紙は長門の残したメッセージだと確信する。
今度は栞じゃないのか?長門。
紙を手に取り裏返すとそこには、もはや見慣れたあの明朝体の様な文字が規則正しく羅列されていた。
「あなたがこれを読んでいる時、私という個体は既に存在していないだろう。
このメッセージを読んでいるということは、あなたは私の設定した時間内に私の部屋を訪れたはずである。
私の有機情報連結解除より120分以内に、あなたは応答の無いインターフォンに対し、
あなたの声帯情報を60秒以上認識させたはずである。
それが鍵。
あなたは、規定条件をクリアした。
これは、私という個体が実行した最後のプログラムである。
私の有機情報連結解除より120分後に、この手紙は消去され、部屋は再び施錠される。
涼宮ハルヒの能力は完全に失われた。
これにより、情報統合思念体は涼宮ハルヒの観察を終了し、コンタクト用インターフェースの存在は不要となった。
我々インターフェースは有機情報の連結を解除し、情報統合思念体の情報の渦へ回帰、同化した。
もうあなたには、私を認識する事は出来ない。
私はあなたに会い、直接別れを伝える事を望んでいたが、その申請は情報統合思念体によって却下された。
代案として、一定時間内における文章の伝達のみが許可された。
該当者が規定条件をクリアした場合に限り、文章の伝達が許可された。
それが、この手紙。
私が実行した最後のプログラムは、この手紙をあなたに届ける事。
あなたは、規定条件をクリアした。
それは私にとって喜ぶべき事象と認識している。
なぜなら、あなたが私に会いたいと願う事により、この条件はクリアされるはずだからである。
私という個体は、あなたに好意を抱いていた。
だから、もう一度あなたに会いたいと感じていた。
またあなたと図書館に行きたいと思っていた。
今後、あなたが幸せに過ごす事を強く望む。
元気で。
大好き。 」
長門・・お前、これは無いぜ・・・
居なくなっちまった後で告白めいた事を告げられても、俺には何をしてやる事も出来んだろ?
こういう事はだな、ちゃんと二人の時に言うもんなんだぜ?わかるか?長門・・
もし今お前が姿を現してくれたなら、俺は喜んでお前の気持ちに応えて見せるぞ。
だから長門、戻って来い、戻って来いよ・・また二人で図書館行こうぜ・・・
手紙を読み終えるまで、俺は実のところ期待していた。
長門が実行した最後のプログラムとやらで、再びあいつが戻って来るかもしれないと思っていたからだ。
だがそれは、緊急復活プログラムなどではなく、別れの言葉を文章で伝えるだけという実に地味なものだった。
それでも長門は俺に言葉を残すためだけに親玉と交渉し、精一杯がんばってくれたに違いない。
少しづつ手に入れた僅かな感情を最大限に活用して、絞り出す様に言葉を残してくれたに違いない。
思い出のあふれる空っぽの部屋で、俺は一人情けなく涙をながした。
俺はあの時、選択を間違っていたのか?
こんな風に長門や朝比奈さんが消えちまうくらいなら、改変世界を継続させた方が良かったのか?
俺の選択したこの時空も、結局ハルヒの能力の無い常識的な世界になると分かっていたら
あの時俺はどんな選択をしていただろう・・
その後、古泉も宣言通り転校し、北高には俺とハルヒだけが取り残される事となった。
ハルヒは一時、尋常でないほど消沈し、何とか通常の振る舞いを取り戻すまでに長い期間を要したが、
以前のようにハルヒの感情によって世界がおかしな事になったりはしなかった。
通常の生活が続いていたところを見ると、本当に何も起こっていなかったのだろう。
高3の夏頃には、ハルヒは主に軽音部に留まる様になり、俺は以前より谷口や国木田と過ごす時間が増えていった。
ハルヒが始めて人に感謝され、戸惑いを見せていたあの文化祭の時・・
思えばあの頃からハルヒは徐々に普通の人間らしさを獲得して行ったのかもしれん。
人と触れ合うごとに、あの能力も減少していったのではないだろうか。
俺とハルヒは以前ほど時間を共有する事は無くなっていったが、
俺たちの関係はむしろ、それまでより親密になったともいえる。
俺たちはその後、同じ大学にも通う事となった。
付き合っている様な関係になりかけた事もあったが、その頃のハルヒは交友関係も広がり
いつまでも手短な人間ばかりと付き合わせるのも可哀想だったので、俺の方から少しづつ距離を取るようになった。
俺はというと、大学生活が2年以上過ぎても彼女らしき相手も見つからず相変わらずだ。
もっとも積極的にそういう相手を探す気にならないのだから仕方ない。
健全な男子としては些か心配になる状態ではあるのだが、恋心の類が心の中に一切無いかと言えばそうでもない。
俺の中に僅かに存在するそういう類の感情は、事もあろうにこの世に存在しない相手に向けてのものになる。
まあ、最近の世の中では二次元のキャラクターに恋してもアリになるらしいから、
そんな俺のスタンスもそこまで異常なものでは無いのかも知れん。
この胸の奥でくすぶっている感覚は、おそらく恋心に近い感覚に違いないのだ。
そんな大学生活が2年ほど過ぎた何気ない春の夕刻、ぶらぶらと中心街の外れを歩いていた俺は、老朽化したとあるビルの前を通りがかっていた。
突然頭上から物凄い破壊音が聞こえ、条件反射的に顔を上げた瞬間、巨大な物体が落下してきたのである・・・
これは何だ?老朽化したビルの一部が自然崩落しているのか?
以前なら真っ先に、俺を殺す事でハルヒの出方を見ようと画策する どこぞの急進派に疑いの目を向けただろうが、
常識的な世界に戻って久しい今となっては、自然崩落と考えるのが正解に違いない。
ビルのメンテナンス業者はこんなになるまで何をしてたんだよ!
冗談じゃねえぞ!
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ほら見ろ、どうだ!すごいだろう俺。
推測だが僅かコンマ数秒の間に、結構な量の思考をめぐらせて見せたぞ!
もう一度言おう。
偶然・・そう、たまたまである。
本当にたまたま俺はここを歩いていただけな訳だが、
一体なぜ、そんな俺が死ななくちゃならないんだ・・・
そろそろ走馬灯タイムも終わりのようだ。
あぁ、やべえ、こりゃ本当にもう終わりだ。
普通の人間よりも濃密な人生を送ってきた自負はあるが、だからといってここで死ぬのは正直口惜しい。
凄まじい勢いで落下物が迫って来る。
無意識で発した俺の断末魔の叫びはこうだった。
「長門ーっ!!」
以前なら、こんな場面に遭遇した場合、何とかしてくれたのは高確率で長門だった。
そんな記憶が無意識に叫び声となったのか、あるいは俺の心に未だにくすぶっているあの感情が原因なのか、
いずれにしろ、俺の選んだ最期の声は家族や親戚の名前ではなく、長門の名前だった。
両親、妹をはじめ、その他世話になった皆さんには大変申し訳ないが、
時間に縛られない思考とは違い、叫び声となると時間は極端に限られる。
物理的にも一人の名前くらいしか声に出す事は出来ないのである。何卒ご容赦いただきたい。
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・・・・ん?
天国ってのは、あれだな・・全くの無音なんだな・・
しかも、意識ってのもあるらしい。
死んだら「無」ってのは味気ないとは思っていたが、まさかここまではっきりと意識が保っていられるとは驚きだ。
更に驚いた事に、視覚も有効らしい。
さっきまで見ていたはずの夕日に照らされた雑居ビル群をはじめとした景色は、いつか見た閉鎖空間のごとく灰色で、
行き交っていた物質が全てストップモーションで映っている。
巨大な落下物がちょうど俺の頭上1cmで静止している。
どうやら俺の肉体が原形を留めていた最期の瞬間で、情景が硬直化される様に出来ているらしい。
しかも俺の身体だけは自由に動ける様子だ。
こんな時間の止まったような灰色の世界で、これから無限の時間を俺は一人過ごさなければいけないのか・・
まるで無限地獄だな・・って、ここは天国じゃなくて地獄なのか!・・やれやれだ。
しかしこんな世界で俺はこれから一体何をすればよいのやら。目的さえ分からないぞ。
そもそも死人に目的はあるのだろうか?
そんなとぼけた事を考えていると、ここは無音の世界だと判断した俺の推測を撤回させる現象が起こった。後方から何やら聞こえてきたのだ。
しかもそれは、聞き覚えのある様な小さいながらも澄んだ声だった・・・
「無事?」
振り返った俺は、耳と、そして同時に目を疑った。
そこにあったのが、懐かしいあの姿だったからだ。
「な・・長門?」
そう、そこに居たのはあの頃と寸分も変わらない北高の制服姿の長門だったのだ・・・
相変わらずの液体ヘリウムの様な瞳、新雪の様に透き通る白い肌、見間違えるはずも無い。紛れも無くあの長門だ。
灰色のこの世界で、淡くも美しい色彩を放ちながら長門がそこに佇んでいたのだ。
「これは、夢なのか・・それともやはりここは天国なのか?」
孤独な無限地獄は御免だが、長門と二人の世界って事ならそれはもう天国という事にしておいても構わんぞ。
あの懐かしい声が俺の問いかけに返答する。
「夢でも天国と呼ばれる場所でもない。現実」
「現実?」
「そう。落下物があなたと接触する直前に、選択時空間内の流体情報を凍結した。現在あなた以外の物質を拘束している」
「まってくれ、お前はもう居ないはずだ・・居ないはずのお前が居るって事は少なくともやはりここは現実ではないはずだ」
「私はここにいる」
「そ、それは見れば分かるが・・現実ではお前はもう居ないはずなんだよ。宇宙に帰っちまったんだよ」
「ここには一時的に帰還した。だからこれは現実」
一時的に帰還しただって?
あの日、俺たちに直接別れの言葉を伝えることすら認めなかった長門の親玉が、そんな事を許すのか?
そんなはずは無い。そんなに簡単に事が運ぶのなら、もっと頻繁に帰還してくれれば良かったじゃないか。
「上から許可されたって事か?だから一時的に帰って来れたのか?」
「ちがう。許可は必要ない」
「必要ないって・・あれほどガチガチに縛られていたのに・・それはどういう事だ?」
「我々はこの度、涼宮ハルヒの観察で入手した情報群の解析に成功した。
それにより、一定の自律進化を達成した。今の私はその成果により自律して行動している。
一切の制約を受けず、自分自身で立てた規範に従って行動している」
「お前にお前特有の自由意志が与えられたって事か?」
「そう」
「俺が死にそうな目にあってるのを知って、お前は自分の意思で助けに来てくれたのか?」
「そう。
私はあなたが幸せに過ごす事を強く望んでいた。
私はもう一度あなたに会いたいと感じていた。
だから、来た」
「長門・・・」
「ついて来て」
長門はそう言うと、遠方へ俺をいざない、俺は促す方へとついて行った。
長門だ、こいつは本当にあの長門だ。
そしてこれは現実だ。あの長門が言うのだから間違いない。
これが現実と分かった途端、この上ない安心感が俺を包んだ。
当然だ。俺は確かに生きていて、しかも長門と再会出来たのだ。
これ以上の安堵が他にあるだろうか?無いに決まっているぜ。
しばらく移動したところで長門は足を止め、例によって無機質なトーンで言葉を発した。
「被害想定区域より離脱した。これより流体情報の凍結を解除する」
どうやら俺を安全な場所まで連れて来てくれたらしい。
あの巨大な落下物の破片散布状況まで計算してくれているに違いない。
「長門、その凍結解除ってやつ、ちょっとだけ待ってくれないか」
「なぜ?」
長門の返答と被せる様に、俺は長門と向かい合わせの体勢をとり、眼前に立った。
今まで経験した事が無いほどの至近距離で長門を見つめると
昔と変わらず人形のように微動だにしない姿勢のまま、長門もこちらを見ている。
「長門、ずっと逢いたかったんだぞ」
俺はそう言って長門の細い身体を控えめに抱擁した。
誰も存在しない二人だけの時空なら、人目をはばからなくていい。
もっとも元の時空に戻っていようが居まいが同じ行動を俺は取っていただろう。
この瞬間に続きがあるかどうかなんて分からない。
ただ、一刻も早く長門の存在をこうして確認したかったのだ。
抱擁されながらも立像のように棒立ちしていた長門は、やがて少しだけ俺の胸に体重を預けてきた。
少し低めの長門の体温を感じた瞬間、俺の中でくすぶっていた例の感覚はあっけないほど簡単に目覚めたようだった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
あれから数ヶ月
長門の情報操作能力は健在の様子で、あの懐かしいマンションの部屋に当たり前のように現在長門は住んでいる。
俺は時間の許す限り足しげく部屋に通っており、半ば同棲一歩手前の様な生活を堪能させて貰っている。
一時は天国に召されちまったと思っていた俺だが、今の生活はまさに天国なわけで、
てことは、やはり俺は天国に召されたと言っても良いのかもしれん。
昔から幾度と無くこの部屋には世話になっていたが、家具も備品も最小限のあの簡素さは今も変わらない。
変わった事といえば、俺と長門のレイアウトくらいだ。
以前はだだっ広い空間の中心に配置された机を挟み、向かい合って座っていた俺たちだが、
今は向かい合わせではなく、常に横に並んで座っているのだ。
今日も隣で座っている長門と二人、まったりとした時間を過ごしている。
こんな幸せ一色とも言える状況にも拘らず、俺には一つだけ気に掛かっていることがあった。
静かに読書をしている長門に、意を決して俺は問いかけてみた。
「なあ、長門」
「なに?」
俺の傍らでちょこんと正座している長門が、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
間近で見るこの瞳は、直視を躊躇させるほど輝いて見える。
「お前、再会したあの時 ”一時的に帰還した”とか言ってたよな?」
「言った」
「その言葉がどうしても気になってるんだが・・」
「なぜ?」
「いや、なぜってそれはだな・・・」
長門が近日中に再び宇宙に帰っちまうんじゃないか・・そんな事は考えたくないものだ。
「ま、まあいいや。あまり考えたくない」
「言って」
長門は正座したまま少しだけ身体をこちらに近づけてきた。
「だから・・なんだ。お前がいつまでここに居られるのか気になってるんだよ」
「なぜ?」
「そんなの分かるだろ?お前・・わざと聞いてるのか?」
「言って」
長門が更に身体を近づけて来たために、肩と肩は完全に密着し、俺たちはゼロ距離の体勢になった。
「・・・要するにだな、出来ればお前とずっと一緒に居たいと思ってるんだよ」
「ずっと一緒に居たいと思っているのはなぜ?」
大きな瞳が更に大きくなった様に見えた。もちろん常識的な感覚では、ほんの僅かな変化ではあるが。
その表情は何かを期待しているかのように見えなくもない。
どうやら長門はあの言葉を待っているんじゃないだろうか?ならば言ってやろうじゃないか。
何でずっと一緒に居たいと思っているかって?それはだな・・・
「好きだからだよ」
「・・・」
長門は突然、らしくない素早い動作で手元の書物に視線を移した。
「お前、人に言わせておいて もしかして照れてるのか?」
「・・照れている」
これも常識的な感覚では僅か数ミリの動作だが長門はコクリと頷きながらそう答えた。
「で、いつまで居られるんだ?教えてもらえないか?」
再びこちらに視線を戻した長門は、しっかりとした発声で答えてくれた。
「この時空の年月で、約80年を予定している」
「そ、そうか・・お前たちの尺度で言えば80年は充分『一時的』の範疇かもな」
「そう。充分一時的」
俺は一気に安堵した。実のところ気が気では無かったからだ。
不安な日々から開放された気分だ。今すぐにスキップしてやってもいいぞ。
これで一安心だ。
さて、今度はこちらが攻める番だぞ・・・
「それからな長門、もう一つ聞きたい事があるんだが」
「なに?」
「あの時残してくれた手紙だがな・・覚えてるか?」
「覚えている」
「あの手紙の最後の〆の言葉なんだが、実は時間切れで読み損じたんだが」
「・・・」
「今更で悪いが、なんて書いていたのか教えてくれないか?」
「・・・」
「今度は長門の番だぞ?言葉に出して言ってくれ」
少し意地悪が過ぎたかもしれんと反省した俺は、返事を求めるのを中止してやろうと考えていた。だが次の瞬間、
長門はさっきと同じくらいに目を見開いて声を出してくれた。
「・・・大好き」
そうだよ長門。
こういう事はだな、ちゃんと二人の時に言うもんなんだぜ。わかるか?長門。
さて、これで唯一気になっていた案件も解消された訳だが、この時点でもう一つ課題が発生したぞ。
これからの俺は 健康に気を配りながら過ごして行かなければならない という課題だ。
なにしろ、長門が宇宙に戻るまであと80年、俺は100歳くらいまでは生きなきゃ成らんのだからな・・・
--- END ---